会議室をめぐる問題とナショナリティ
会社には、商談やミーティングや、さまざまな会議を行うための会議室がある。
この会社では、会議室は事前予約制となっていて、会議室を利用したい社員が、利用時間や用件をイントラネット上で登録しておく。予約状況は、全ての社員が確認できる。
予定していた打ち合わせを行うため、事前予約していた会議室に着くと、すでに中には別の社員がいて、本来その部屋で行うはずの打ち合わせとはまた別の打ち合わせが始まっていた。メンバーもちがっていた。
会議室の場所を勘違いしているのか、もしくは自分たちが予約していた会議室がまた別の誰かに使われていて、仕方なくこの会議室に流れ着いたのだろうか。
念のため手帳を確認すると、やはりこの会議室で間違いなかった。この部屋は、こちらが事前予約していた会議室だった。
打ち合わせをしなければならないから、この会議室はこちらが予約していたものだと告げようとドアノブに手をかけたとき、同じ打ち合わせに参加するタイ人スタッフが、「隣が空いているから隣の部屋で打ち合わせをしよう」と言った。
一瞬、彼女の提案には従えない、と思った。その隣の部屋もまた、今はたまたま空いているだけで、実は他の誰かが予約している部屋なのかもしれない。
予約状況を確認するには、オフィスに戻ってパソコン画面を確認する必要がある。
時間は16時10分。切りのいい16時00分から10分が経過していて、本当にこのまま誰もこない可能性もあるな、と頭をよぎった。
郷に入っては郷に従えではないけれど、わざわざクレームをつけなくても、隣の空いている部屋でやればいいじゃんという彼女のあっけらかんとした乗りに任せて、隣の部屋へ入った。
途中誰かがドアのガラス越しにこちらの様子を覗くのが見えたけれども、何の指摘もクレームもなく、こちらの打ち合わせは予定通り行われ、無事終了した。
きっと途中でこちらの様子を確認していた彼らは、この会議室を事前に予約していた。けれどもぼくたちが部屋を使用していたために、彼らは彼らでまた新しい場所を見つけ、移動したに違いない。
タイと日本の考えかたのちがいなのかもしれない。
目の前の会議に割って入り、「ここは自分たちが予約していた会議室だ」と自分たちの権利と正当性を主張するのも正しいし、「他の部屋が空いているならそっちでやればいい」と割り切るのも、きっと正しい。
ぼくたちの様子を確認して移動した彼らタイ人スタッフもまた、割り切ったのだし、譲ったのだった。
出るか、引くかー。
この日常の一瞬の些細な判断にも、いや、些細な判断のなかにこそ、「国民性なるもの」は立ち現れるのかもしれない。