日常にある「異文化」を豊かに楽しもう。それが、「自分」という枠組みを広げてくれる。
異文化体験は必ずしも海外に出ないと体験できない、というものでもない。
と、ぼくは思う。
身近な人間関係、たとえば職場での上司や部下、同僚との関係や、家庭での夫婦関係、子どもとの関係のなかにも、じつは豊かな「異文化」が織り込まれている。
「異文化」とはつまり、いまの自分の価値観や考え方、感性やロジックなどが、ぴったりと無条件に相手に受け入れられない関係性のことを言っていて、
だとしたらやっぱり、「ひと」と「ひと」が関わる場にはかならず「異文化」が立ち現れる。
海外で暮らすとか、英語でコミュニケーションするとか、「そういうこと」が「異文化体験」なのではないし、「異文化を理解し受け入れること」と同義とはいえない。
たとえ海外に暮らしていても、現地の文化や風習を否定するばかりだったり、
現地のひとたちのことを理解し受け入れる―納得はできなくても、それでも相手の価値観や考え方を理解しようと努力する、そんな気持ちのかけらがなければ、
それは異国の地にいながら、「自文化」の枠に閉じこもっているだけのことに過ぎない。
一方で、身近な関係性のなかで、たとえば妻や子どもの価値観を認め、相手の意見や考え方に耳をかたむけ、自分の文脈から外れているとしても、反射的に否定するのではなく相手を理解しようと努める。
そんなひとは、どこにいようと関係なく、確かに「異文化体験」を豊かに育んでいるといえる。
「異文化」はいつも、すぐそばにある。
大事なのは、ひととの関係性のなかで、相手の価値観、考え方、感性やロジックに興味をもつこと。そのなかで、自分の価値観や考え方がときに「変容」してしまうことをさえ恐れずに、むしろその変化を楽しむ余裕をもつこと。
理解に苦しむような「異文化」と出会ったとしても、拒絶したり断絶したりするのは簡単だけども、理解や合意の「糸口」を見つけようとするチャレンジのなかにこそ、自分の枠組みを広げるチャンスがある、とぼくは信じています。